マッカーサーの告白

今日は秋のお彼岸

いろいろのお花の中

我が家では
涼しくなると
一層元気なるお花が

ハイビスカス

写真 2

涼しくなる夜に
元気を蓄えて
昼間に花をつけるそうです。

写真 1

お彼岸とハイビスカスは
あまりにもアンバランスさがありますが・笑

綺麗に咲くお花には
やっぱり
心が和みます。

あるブログで
こんな記事を見つけました

「マッカーサーの告白」

日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。そして最後通牒としてハルノートを突き付けました。

中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。

あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。

戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。

東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。

徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏し今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。(※註:1951年の時点で正気に帰ったマッカーサーが、この今に続く問題を憂いている)

私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。

「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。

日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。

これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。

日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー
にゃんこさんのブログより引用

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私は昔
日本に誇りを持てずに居ました。

世界の強い国の言いなりになり
無難な言い回しで
本音は言わずに
安全牌を歩く

そんな姿に
日本人としての
誇りを持てずにいたのだと思います。

東北の震災の時

コンニビの外の道に転がっている
1本の缶コーヒーを手にとり
レジに持っていき
お金を払って買っていく

そんな姿がテレビに写り

「日本人は素晴らしい」と世界に取り上げられる

数々のそのような記事を見ては
涙が流れました。

ただ
日本人が誇らしいと思うと
何故か
胸が一杯になり
涙が溢れるのです。

その時気がついたことがあります。

私は
大きい物に巻かれ
本音を言わずに
ただ無難な選択をしている姿は
誇りが持てないと思っていたのだと

そしてそれは
かつての自分自身と
重ねていたから
誇りが持てずにいたのだと

感情が動くとき
やっぱり
それは
自分自身と何かを重ねている時なのですね。

今回のマスコミに取り上げられるように
表面で善と見える行為や言葉は
わかりやすい。

でも
本当に尊いものは

大きい物に立ち向かうという行為とか
本音を言って自分を表現する姿より

「何故そうしたのか?」という
思いなのだと

震災の時
転がっている缶コーヒーを
レジに持っていくことは
日本人にとって
たぶんあたりまえの行動だと思っています。

でも
そのあたりまえの行動だからこそ
尊いのだと
感じています。

「テレビに写っているから」とか
はたまた
「道に転がっているからこのまま持って帰ってもいい」というような

「自分だけ」の視点で物事を捉えていないから

この視点の大きさ
「自分も嬉しい、相手も嬉しい」という

その相手を思いやる
視点の大きさが

尊いものなのだと
感じています。

このマッカーサーの記事を
通して

アメリカが悪いとか
日本が悪くなかったとか

その表面の
ジャッチではなく

「何故そうしたのか?」という
それぞれの
視点に立った時

アメリカの白人も
自国を守るために

日本もまた
自国を守るために

起こした戦争だということ

もう少し踏み込んで
この文面だけで判断するとすれば

アメリカは白人社会を守るためにということで戦争し
日本は国民を守るために戦争に入ったということなのかも

戦争という事実は
多くの人を犠牲にし
苦しみや悲しみも
私達の心のなかに
たくさんの爪あとを残しました。

でも
このことから学ぶことが
あるとすれば

「戦争は怖いから」とか
「戦争はいけないもの」とか
表面だけで
切り取るのではなく

お互いの深い部分を
知ることで
理解が深まり
それぞれの暖かい愛に
触れることなのだと思います。

そこに触れることができれば
対立という戦争ではなく

愛という分かり合える
分かち合いがあるのだと思います

白人だけの守りる愛は
小さくて

日本国民全体を守る愛は大きい

それも
そうゆうことではなくて

ただ
そこに愛が存在していた

その事実があるだけです。

私達の先輩が
戦争を通して
身を持って示してくれた

私達が学ぶ
大切なことだと
感じています。


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